[記事公開日]2016/05/07

プトレマイオスが体系化した天動説を地動説へと転回したコペルニクスとガリレオ・ガリレイ

         地動説を唱えたコペルニクス

プトレマイオスが体系化した天動説に対して、地動説を唱えたコペルニクス

『宇宙や時間・空間を科学的に考察したギリシャの自然哲学からプトレマイオスの天動説へ』、こちらの記事の中でも書きましたが、紀元前4世紀に活躍した古代ギリシャの哲学者アリストテレスが唱えた天動説は、2世紀に古代ローマの天文学者プトレマイオスによって体系化されました。

そして、プトレマイオスによって体系化された天動説は、その後1000年以上にわたって西洋キリスト教世界に広く浸透していきました。

プトレマイオスによって体系化された天動説に対して、地動説を唱えたのが、16世紀のポーランドの天文学者ニコラウス・コペルニクスです。

コペルニクスは、当時主流だった天動説(地球中心説)を覆す地動説(太陽中心説)を唱えましたが、これは天文学史上最も重要な発見とされています。

天動説(地球中心説)から地動説(太陽中心説)へと、ものの見方が180度変わったことは、「コペルニクス的転回」として知られています。

ただし、太陽中心説をはじめて唱えたのは紀元前3世紀の古代ギリシャで活躍した、サモスのアリスタルコスです。

 

地動説を最初に唱えたのは紀元前3世紀の古代ギリシャのアリスタルコス

2世紀に古代ローマの天文学者プトレマイオスによって体系化された天動説は、その後1000年以上にわたって西洋キリスト教世界に広く浸透していきましたが、それに対してコペルニクスは主著『天体の回転について』で地動説を唱えました。

しかし、地動説そのものは、コペルニクスが最初に唱えた訳ではなく、紀元前3世紀に活躍した、古代ギリシャの天文学者アリスタルコスです。

コペルニクスよりも1800年程古い時代に生きていた、古代ギリシャの天文学者アリスタルコスによって、既に紀元前3世紀には、地動説は唱えられていました。

宇宙の中心には地球ではなく太陽が位置しているという太陽中心説(地動説)を最初に唱えたアリスタルコスは「古代のコペルニクス」とも呼ばれています。

アリスタルコスは、彼よりも1世紀程古い紀元前4世紀に古代ギリシャで活躍したヘラクレイデスの考え方を継承して、詳細な観測を元にして、地動説(太陽中心説)を唱えたようです。

ヘラクレイデスは、地動説に近い概念の宇宙体系を考えた一人とされており、水星と金星の位置が太陽から一定角度以上離れないことを根拠として、水星と金星が太陽の周りを回っていると考えていたようです。

そして、アリスタルコスは、このヘラクレイデスの考え方を継承して、詳細な観測を元にして、地動説(太陽中心説)を唱えた訳ですが、アリスタルコスの天文学の学説は広く受け入れられることはなく、ずっとアリストテレスやプトレマイオスの説が支配的だったようです。

そして、アリスタルコスよりも1800年程後の時代になって、ポーランドの天文学者コペルニクスが主著『天体の回転について』を著して地動説(太陽中心説)を唱え、発展することになります。

 

天動説から地動説へのコペルニクス的転回

スポンサーリンク

1543年に出版されたコペルニクスの主著『天体の回転について』は、プトレマイオスによって体系化された天動説(地球中心説)から地動説(太陽中心説)へと、180度見方を変えるものであり、「コペルニクス的転回」をもたらすものとなりました。

コペルニクスは、惑星の複雑な運動や明るさの変化を証明するために、太陽中心の宇宙モデルを考えたようです。

惑星観測の精度が上がるたびに惑星の運行を説明するための周転円の数が増えていき、非常に複雑なものとなっていましたが、この複雑さを解消するためにコペルニクスは地球を太陽の周りを回るものと仮定し、その結果従来の天動説よりもずっと簡単に天体の逆行運動などを説明できることを発見したのだと言います。

コペルニクスは、地球の代わりに太陽を中心に置き、地球をも含めた6個の惑星を周囲に配置し、地球は太陽の周りを公転しながら1日に1回、自転していると推測してみたようです。

当時は、天体望遠鏡が存在せず、惑星は肉眼で見える6個だけが知られていましたが、コペルニクスが太陽を中心に置いてみたところ、太陽と6個の惑星のモデルは、スッキリとシンプルなものに姿を変えたようです。

そこで、コペルニクスは、彼の考えを主著『天体の回転について』に著しましたが、自分の著書が世間に与える影響を恐れて、自著の出版を自分が死を迎えるまでは許さなかったとも言われています。

コペルニクスが生きていた16世紀のヨーロッパ社会では、カトリック教会の影響力が非常に強く、彼らはプトレマイオスによって体系化された天動説を信じていたため、地球は宇宙で最も重要な天体であり、地球が宇宙の中心だと人々に説いていたからです。

コペルニクスは、天文学者であると同時にカトリック司祭でもありましたが、知事、長官、法学者、占星術師でもあり、医者でもあるというふうに、かなり多彩な人物だったようです。

そして、コペルニクスは、経済学においても、「悪貨は良貨を駆逐する」ことに最初に気付いた人物としても知られています。

「悪貨は良貨を駆逐する」というのは、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなるということであり、「グレシャムの法則」の名で後に知られるようになりました。

 

ガリレオ・ガリレイはコペルニクスの唱えた地動説を天体望遠鏡で観測して確信

コペルニクスの死と同時に、彼の主著『天体の回転について』は世に送り出されることになりましたが、彼が唱えた地動説(太陽中心説)は、しかし直ちに大きく学界を動かすといったことはなかったようです。

『天体の回転について』は禁書となることもなく各地の天文学者のもとに広く知られるようになっていったようですが、だからと言ってこの理論が正しいと考える者もあまりいなかったと言います。

コペルニクスの観測記録は精度が悪く、それを基にした地動説も天動説と比べてそれほど精度に差があるものではなかったためのようです。

コペルニクスの時代にはまだ天体望遠鏡は発明されておらず、彼は惑星を肉眼で観察したため、彼の宇宙モデルには人々を納得させられるだけの十分な証拠がなかったのです。

コペルニクスの主著『天体の回転について』が発表されてから数十年間は目立った動きは起きなかったようです。

そして、彼の説が完全に受け入れられるまでには100年以上の時がかかりましたが、最終的にはコペルニクスの説は世界観そのものを覆すような大きな影響力を持つことになりました。

そして、肉眼でしか観測できなかったコペルニクスの地動説を、天体望遠鏡を用いた観測によって確立させたのが、ガリレオ・ガリレイです。

イタリアの物理学者・天文学者・哲学者であったガリレオ・ガリレイは、コペルニクスよりも数十年後の時代に生きた人物であり、17世紀前半の時代に大活躍しました。

ガリレオ・ガリレイが大活躍することになったことには、その当時に初めて天体望遠鏡が発明されたことも大きく影響していると考えられます。

『望遠鏡は1608年に作られ、天体を宇宙観測したのは1609年のガリレオが世界初』、こちらの記事の中でも書きましたが、望遠鏡は1608年に作られ、天体を宇宙観測したのは1609年のガリレオが世界初だとされています。

また、『月の観測史における望遠鏡の時代はガリレオが先駆けとなりアポロ計画の予備調査まで』、こちらの記事の中でも書きましたが、最初に月の観測結果を残したのも、ガリレオ・ガリレイだと言います。

コペルニクスの宇宙モデルに興味を抱いたガリレオ・ガリレイは、当時発明されたばかりの望遠鏡を自分で製作して惑星を詳しく調べました。

そして、コペルニクスの地動説(太陽中心説)が正しいことを確信したのです。

ガリレオ・ガリレイは、当時発明されたばかりの望遠鏡を用いて、1610年に木星の4つの衛星(イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト)を観測していますが、これらの木星の4つの衛星は、発見者にちなんで「ガリレオ衛星」と呼ばれています。

そして、ガリレオはこれらの観測結果を1610年に『星界の使者』として論文に発表していますが、木星のように衛星を従えた地球が太陽の周りを回っても不思議ではないとの確信を得たようです。

ガリレオ・ガリレイは、天体観測や地動説についてまとめた書物を発表しましたが、この本がカトリック教会の怒りを買い、ガリレオは宗教裁判でローマ教皇庁から有罪の判決を受けることになったのは、かなり有名な話です。

ガリレオは1632年に地動説の解説書『天文対話』を発行しましたが、翌年の1633年に行われた第2回目の宗教裁判において有罪判決を受け、自説の破棄、『天文対話』の出版禁止、自宅幽閉を宣告されて、教会を破門され、軟禁状態となりました。

法廷を出る時ガリレオ・ガリレイは、「それでも(地球は)回っている」とつぶやいたと伝えられています。

高齢となったガリレオは、失明し、軟禁を解かれないまま1642年にその生涯を閉じることになりました。

そして、ガリレオ・ガリレイの死後350年経った1992年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世により、ガリレオ・ガリレイの破門は解かれ、宗教裁判の誤りとガリレオ・ガリレイの名誉回復が認められることになりました。

 

スポンサーリンク

コメントを残す

サブコンテンツ

このページの先頭へ