[記事公開日]2015/12/28
[最終更新日]2016/04/09

宇宙を目指した飛行士や科学者たちと開発の歴史の簡単総まとめ

宇宙を目指した人類の歴史

私たち人類は、太古の昔から、宇宙への憧れを抱き、宇宙を目指してきました。

紀元前20世紀頃には既に、エーゲ海のクレタ島に「イカロス」という少年の話が生まれており、ギリシャ神話のエピソードとしても有名です。

西暦120年頃、現在のシリアで生まれたルキアノスは、『イカロメニッポス』という世界初のSF小説を記しており、哲学者メニッポスが両手に羽をつけて空を飛び、月に行き、天界に行って神々に会うという物語であり、人類が宇宙へと飛び出した初の作品だと言われています。

また、日本においても、「かぐや姫」の物語があります。

「かぐや姫」の物語である『竹取物語』は、日本最古の物語と伝えられ、遅くとも平安時代初期の10世紀半ばまでには成立したとされており、「かな」によって書かれた最初期の物語の一つとされています。

宇宙について何も知らない時代から、人は想像の翼を広げて宇宙を目指した訳ですが、この思いが後の宇宙開発へとつながっていくことになります。

宇宙を目指した人類の歴史を具体的に見ていきたいと思います。

 

20世紀以前・・・最初のロケットで宇宙を目指したのは16世紀の中国人・王富

★世界初のロケットは1200年頃の中国で発明された「火せん」

最初にロケットを発明したのは、なんと中国人であり、火薬も中国人の発明によるものだといいます。

そして、1200年頃には、「火せん」と呼ばれる、世界初のロケットも誕生しているようです。

「火せん」は、今でいうロケット花火の大型版のようなものだったようです。

★最初のロケットを発明したのは16世紀の中国人である王富

宇宙を目指して最初にロケットを使用したのは、実は中国人であり、16世紀の明の時代の高級官僚だった王富という人物だとされています。

王富は、特別に作らせた竹製のイスに、47機の火薬ロケットを取り付け、宇宙を目指そうと考えたようです。

ロケットと化したイスは、轟音を上げて走り、大きな爆発音を上げたようですが、後に残ったのはバラバラになったイスの残骸だけであり、王富の姿はどこにもなく、人々は「王富さんは天国に行ってしまった」とつぶやいたそうです。

残念な結果ではありますが、宇宙を目指した人類の偉大な第一歩と言えるも知れません。

★ロケット中興の祖・コングレーブのロケットが19世紀の戦争で活躍

16世紀頃、インドにおいては、中国の「火せん」を大型化したロケット兵器を活用しはじめたようです。

その性能は決して高くないものでしたが、18世紀後半にインドと戦争をしていたイギリスでは、このロケット兵器にさんざん苦しめられることになります。

この苦い経験がイギリス軍砲兵部隊のウィリアム・コングレーブを動かし、彼はインドのロケットを徹底的に研究することになります。

そして、兵器としての使用に耐えるような新たなロケットを完成させることになります。

これが「コングレーブ・ロケット」と呼ばれるものであり、一生をロケット改良に捧げたコングレーブは「ロケット中興の祖」となりました。

1805年、「コングレーブ・ロケット」がナポレオン軍との戦いで初めて実戦投入され、その後も戦争の度に活躍して、数千から数万本のロケットが使用されたようです。

ただ、その後、大砲に新たな技術が生まれたため、19世紀のうちに「コングレーブ・ロケット」はお役御免となりました。

★SFの開祖ヴェルヌの小説『月世界旅行』は100年後のアポロ計画との共通点がある

自然科学が世界的に注目を集めた19世紀には、自然科学の成果を小説に込めた空想科学物語、いわゆるSFが全盛期を迎えており、1835年から1865年までの30年間は、「SFの黄金時代」と呼ばれています。

「SFの開祖」として知られるジュール・ヴェルヌの小説『月世界旅行』は1865年に出版されましたが、科学知識をフルに生かして書き上げられています。

そして、およそ100年後にアメリカが行ったアポロ計画との共通点も指摘されており、打ち上げ基地がどちらもアメリカのフロリダ州であることや、宇宙船の名前がヴェルヌの小説では「コロンビアード」、アポロ計画では「コロンビア」だったことなど、いくつかの共通店があり、まるで未来を予知していたかのような内容だとも言われています。

 

20世紀前半・・・「近代ロケットの三大先駆者」たちにより宇宙飛行実現の可能性

20世紀に入ると、宇宙飛行実現への可能性が与えられるようになりましたが、その道を切り拓いたのは、「近代ロケットの三大先駆者」とよばれる、ロシアのツィオルコフスキー、アメリカのゴダード、ドイツのオーベルトだとされています。

★「宇宙飛行の父」とよばれるツィオルコフスキーは、「兵器」だったロケットを宇宙飛行のツールへと変えた

ロシアのコンスタンチン・ツィオルコフスキーは、それまで「兵器」だったロケットを宇宙飛行のツールに変えた人物です。

彼は1897年に「ツィオルコフスキーの公式」を発表して、ロケットによる宇宙飛行が初めて可能だということを、科学的に証明しました。

また、現在の宇宙開発へとつながる斬新で多彩な理論やアイデアを次々と発表しています。

いらなくなったタンクやエンジンを捨てながら飛ぶ多段式ロケットや、液体燃料ロケットの理論、宇宙服や宇宙ステーション、軌道エレベーター(宇宙エレベーター)などのアイデアも、全て彼の頭から生み出されたとされています。

ツィオルコフスキーは「宇宙飛行の父」とも呼ばれており、宇宙飛行実現に向けた可能性を大きく与えてくれることになりました。

★「近代ロケットの父」ゴダードが、液体燃料ロケットを初めて打ち上げ成功させる

「近代ロケットの父」とも呼ばれる、アメリカのロバート・ゴダードは、1926年に人類初の液体燃料ロケットの打ち上げ実験を行い、成功させた人物です。

その結果は貧弱なものではありましたが、大西洋横断無着陸飛行を成し遂げたチャールズ・リンドバーグの後押しを受け、資金を得たゴダードは、研究を続けていきます。

そして、1935年には、ジャイロスコープ、つまり物体を高速回転させることで角度や角速度が検出できるようにした計測器で制御されたロケットの打ち上げに、史上初めて成功しました。

ゴダードの努力により、こうしてロケットはついに安定した飛行を獲得することができ、宇宙飛行という人類の夢がまた一歩近づくことになったようです。

★「近代ロケット三大先駆者」の一人オーベルトを中心とした「ドイツ宇宙旅行協会」

ロシアのツィオルコフスキー、アメリカのゴダードと並んで、「近代ロケットの三大先駆者」と呼ばれているのが、ドイツのヘルマン・オーベルトです。

オーベルトが1923年に発表した著作『惑星間空間へのロケット』と、1929年の『宇宙旅行への道』がドイツ青年たちの宇宙熱に火をつけることになり、彼らは「ドイツ宇宙旅行協会」を発足させることになります。

その後、本格的にロケット開発に乗り出すことになります。

初期の「ミラク型」と呼ばれたロケットでは相次いで失敗したようですが、その後「レブルゾル(反発)型」と呼ばれた改良ロケットでは1931年に打ち上げに成功しています。

ただ、世界大恐慌の影響を受けて、「ドイツ宇宙旅行協会」は1934年には解散してしまいました。

★人類の月到達に最大の功績を残した人物とされるフォン・ブラウン

人類の月到達に最大の功績を残した人物とされているのが、ドイツ生まれのフォン・ブラウンです。

彼は20歳の若さで「ドイツ宇宙旅行協会」のリーダー格になりますが、資金難によって「ドイツ宇宙旅行協会」は立ちいかなくなります。

この苦境に手を差し伸べたのが、ヒットラー率いるナチス・ドイツであり、大量兵器としてのロケットに強い関心を持っていたようです。

ブラウンは悩んだ末に、ロケット研究を続けたいという思いから軍部の管理下でロケット開発を続けることになります。

ブラウンの研究は進み、ナチスのロケット技術は飛躍的に発展し、1942年には「V2ロケット」が初飛行に成功しています。

これは当時の世界最大のロケットであり、弾頭は約1トン、約290~340キロメートルの射程距離を持っていました。

完成した「V2ロケット」は早速実戦に使われることになり、1944年9月に初投入されましたが、この時既にナチス・ドイツの敗北は確実になっていたようです。

結果的に「V2ロケット」が使われたのは7か月間だけでしたが、その間だけでも1500発を超える「V2ロケット」が発射されています。

ナチスの敗北が確実との情報を得たフォン・ブラウンは、アメリカ軍に投降して、アメリカでロケット研究を続けることになりました。

 

★20世紀後半‐1(1951~1969年)・・・米ソ冷戦により人類の宇宙開発技術は飛躍的に進化

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第二次世界大戦を経て、人類の宇宙開発技術は飛躍的に進歩していくことになりますが、それを担ったのが、冷戦下の二大大国である、アメリカとソ連でした。

冷戦下の米ソ両国で、熾烈な宇宙開発レースが行われることになりますが、その幕開けとなったのが、1957年10月4日、ソ連による人類初の人口衛星「スプートニク1号」の打ち上げ成功になります。

そして、こうした熾烈な宇宙開発レースは、1969年7月20日、アメリカの「アポロ11号」が人類初の有人月面着陸に成功するまで続きました。

★1957年10月、ソ連が「スプートニク1号」で人類初の人工衛星打ち上げに成功

人類初の人工衛星の打ち上げを成功させたのは、ソ連であり、1957年10月4日、「スプートニク1号」を地球の軌道に乗せることに成功させました。

その立役者はロケット開発の指導者セルゲイ・コロリョフとされています。

アメリカはまさかソ連に先を越されるとは夢にも思っていなかったようで、プライドを散々に打ち砕かれるほどの衝撃を受けたとされており、これを「スプートニク・ショック」と呼びます。

この後、米ソは冷戦下で熾烈な宇宙開発競争を繰り広げていくことになります。

★1958年1月、アメリカ初の人工衛星「エクスプローラー1号」打ち上げに成功

ソ連に先を越されて、「スプートニク・ショック」を受けたアメリカは、フォン・ブラウンのチームに人口衛星打ち上げを命じることになります。

そして、1958年1月31日、アメリカは「エクスプローラー1号」で、アメリカ初の人工衛星打ち上げに成功しましたがソ連から4ヶ月遅れての打ち上げ成功となりました。

この年、アメリカでは、ミサイル開発など国家防衛に関わる部門は引き続き軍が担うとともに、非軍事的なロケットなどの宇宙開発は非軍事的な機関が担うことにする方針を定め、アメリカ航空宇宙局(NASA)を設立しています。

フォン・ブラウンのチームがNASAに移管されたのは翌年の1959年9月になります。

★月面に到達した「ルナ2号」と裏側を撮影した「ルナ3号」で、月探査でもソ連がアメリカに先行

人工衛星の打ち上げに成功した米ソ両国の次の目標は、有人宇宙飛行でしたが、その前に、それよりリスクの低い無人月探査で両国の競争が始まりました。

ソ連は「ルナ計画」を始動させ、月探査でもアメリカに先んじることになります。

そして、1959年9月、「ルナ2号」で初めて月面に到達することに成功し、世界中に大きなインパクトを与えました。

また、翌10月に打ち上げられた「ルナ3号」は、月を周回して人類が見たことが無かった月の裏側の撮影に初めて成功しています。

★ソ連は1960年8月、「スプートニク5号」で2匹のイヌを無事帰還させ、有人宇宙飛行へ王手をかける

ソ連は1960年8月、有人宇宙飛行船の試験機「スプートニク5号」にベールカとストレールカという2匹のイヌの他に、マウスやハエや数種類の植物や菌類なども乗せて、打ち上げました。

「スプートニク5号」は地球を18回周回した後、翌日には無事地球へ帰還し、2匹のイヌをはじめ他の動物も生きたまま帰還したそうです。

いよいよソ連の有人宇宙飛行が秒読み段階に入ったことになります。

一方、アメリカのNASAは1959年に有人宇宙計画「マーキュリー計画」を始動していますが、1961年1月に行われた、チンパンジーを乗せた実験では大失敗に終わっています。

★1961年4月12日、ソ連のガガーリン宇宙飛行士が、人類初の有人宇宙飛行に成功

1961年4月12日、ソ連のガガーリン宇宙飛行士を乗せた人類初の有人宇宙船「ヴォストーク1号」が打ち上げられ、約10分後、「ヴォストーク1号」は周回軌道へ到達し、90分で地球を1周することに成功しました。

人類史上において有人宇宙飛行が初めて成功した訳ですが、ガガーリン宇宙飛行士の「地球は青かった」という言葉は、あまりにも有名です。

★1961年5月5日、「フリーダム7」がアメリカ初の有人宇宙飛行に成功

ソ連のガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行から23日後、アメリカも有人宇宙飛行を成功させています。

1961年5月5日、NASAはアラン・シェパード宇宙飛行士を乗せたマーキュリー宇宙船、通称「フリーダム7」の打ち上げに臨み、成功させました。

その20日後、アメリカのケネディ大統領は、歴史に残る発言をすることになります。

「アメリカは1960年代の終わりまでに、月面に人を着陸させ、無事に地球に帰還させることを国家的な目標をする」

これが後に「アポロ計画」へとつながっていくことになりました。

★1963年6月、ソ連のテレシコワ、女性初の宇宙飛行に成功

ソ連は1962年8月、「ヴォストーク」3号と4号の編成飛行に成功し、2つの宇宙船が同じ時間帯に軌道上に存在した世界初の快挙を成し遂げています。

そして翌1963年6月には、「ヴォストーク6号」に世界初の女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワが乗り込み、3日間の宇宙飛行を行いました。

テレシコワが発したコールサイン「私はカモメ」は日本でも流行語となりましたが、彼女は現在でもなお単独で宇宙飛行を成し遂げた、地球で唯一の女性になります。

★人類が月を往復するアメリカの「アポロ計画」は、「アポロ1号」の火災発生という予想もしない悲劇でが始動

人類が月を往復するという、アメリカの「アポロ計画」は予想もしない悲劇で始まっています。

最初の有人飛行は「アポロ1号」で行う予定でしたが、「アポロ1号」は1967年1月27日、地上でのリハーサル中に火災を発生させ、訓練中の3人の宇宙飛行士は全員窒息死したのです。

この惨劇によって、有人宇宙飛行計画は20か月間中止されることになります。

ただ、この間に、NASAは、フォン・ブラウンが月を目指すために開発した巨大ロケット、「サターンV」による無人の「アポロ4号」の打ち上げに成功しています。

そして、「アポロ計画」においては、1968年10月に打ち上げられた「アポロ7号」において、最初に有人飛行が成功することになります。

★1968年12月、「アポロ8号」は有人飛行で初めて月周回軌道に乗ることに成功

1968年12月21日、NASAは「アポロ8号」を打ち上げて、ソ連との月競争で一気にリードしようと勝負に打って出ます。

有人飛行で月に接近しようというミッションであり、3人の宇宙飛行士を乗せた「アポロ8号」は、月周回軌道に乗り、月を10周し、3人の宇宙飛行士は人類で初めて直接上空から月の裏側を見た人間となりました。

アメリカの「アポロ計画」が見事に復活したのに対して、ソ連の方は、1966年から失速し始め、「ソユーズ1号」の打ち上げ失敗などにより、初めてアメリカの後塵を拝することになります。

★天才科学者ブラウンが発明した巨大ロケット「サターンV」が人類を月に届ける切り札となった

ドイツ出身でアメリカに渡った天才科学者フォン・ブラウンは、人類の月到達に最大の功績を残した人物とされています。

「アポロ計画」では、司令船や月着陸船を積み、3人の宇宙飛行士を月まで届けるロケットが必要でしたが、その役割を担ったのが、天才科学者フォン・ブラウンが渾身の情熱を傾けて開発した巨大な3段式ロケット「サターンV」でした。

「サターンV」は、フォン・ブラウンが1953年に構想し、1958年に実際の開発をスタートさせたものであり、これが10年の月日を経て、人類を月に届ける切り札となりました。

「サターンV」が打ち上げた最初の有人宇宙船は、1968年12月に発射した「アポロ8号」であり、この成功を受けて、NASAは1969年3月に「アポロ9号」、さらには1969年5月18日には「アポロ10号」の打ち上げを成功させ、人類初の月着陸の最終リハーサルを行ったようです。

「アポロ10号」の打ち上げを成功させた時点で、ケネディ大統領が宣言した「60年代末までの月着陸」まで、時間はあと半年だけしか残されていませんでした。

★1969年1月、ソ連の「ソユーズ」4号と5号が有人宇宙船ドッキングに世界で初めて成功

アメリカの「アポロ」9号と10号が、司令船と月面着陸船の有人ドッキングに成功する前に、実はソ連が、有人宇宙船同士のドッキングと、世界で初めて宇宙空間での他の宇宙船への移乗を成功させていたようです。

1969年1月16日、「ソユーズ」4号と5号はドッキングに成功し、5号に搭乗する2人の宇宙飛行士が船外活動で手すりを伝わって4号への移乗に成功しており、世界で初めてのことでした。

★1969年7月20日、「アポロ11号」が月面着陸に成功し、人類が初めて月面に立つ

1969年7月16日、「アポロ11号」を乗せた「サターンV」ロケットがケネディ宇宙センターから発射され、4日後の7月20日、月着陸船「イーグル」が司令船から切り離されて、無事月面の「静かな海」に到着しました。

この時の映像は、世界中で6億人が中継を見守っていたと言われています。

月面に降り立ったアームストロング船長は、「これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」という、歴史に残る言葉を発しました。

アームストロング船長とオルドリン宇宙飛行士は、月面に21時間半滞在し、22キロの月の石の採取など月面活動を終え、月からの離陸にも成功しました。

そして、月面を離れて3時間半後、「イーグル」は無事司令船とドッキングし、7月24日正午、司令船カプセルは無事ホノルル沖に着水して、人類は一つの夢を達成することになりました。

★日本の国産ロケットは鬼才・糸川英夫が造ったペンシルロケットで1955年に打ち上げに成功

我が国・日本におけるロケット開発の歴史は、東京大学生産技術研究所教授だった糸川英夫の奇想天外な構想から始まったそうです。

鬼才・糸川英夫が開発したロケットは「ペンシルロケット」とよばれる小型の固体燃料ロケットでした。

開発するロケットを固体燃料ロケットと決めた糸川は、小さな固体燃料に合わせてロケットを設計する構想により、「ペンシルロケット」とよばれる小型ロケットの開発に成功しました。

1955年4月、国分寺で「ペンシルロケット」の発射実験を行い、その3年後には、高度60キロに達する2段式の「カッパロケット」の打ち上げに成功しています。

★日本のロケット発射場は鹿児島県内にある内之浦宇宙空間観測所と種子島宇宙センターの2箇所

現在、日本には2つのロケット発射場がありますが、いずれも、鹿児島県内にあります。

一つは内之浦宇宙空間観測所であり、もう一つは種子島宇宙センターになります。

内之浦宇宙空間観測所は、日本初の国産ロケットである「ペンシルロケット」を開発した糸川英夫のチームが全国を調査した末に選定した発射場だとされています。

 

20世紀後半‐2(1970~2000年)・・・「ポスト・アポロ」時代の70年代以降では米ソに加えて欧州や日本も台頭

1970年代以降、宇宙開発が「ポスト・アポロ」時代に入ると、米ソに加えて、ヨーロッパや日本も台頭することになります。

糸川英夫の「ペンシルロケット」で宇宙開発の基礎を築いた日本は、1970年2月に人工衛星の打ち上げを成功させます。

また、ヨーロッパにおいても、1975年、欧州宇宙機構(ESA)を設立し、「アリアンロケット」の開発を進めていきます。

その間、米ソは無人探査機と宇宙ステーションの開発に注力していきますが、この時代になると、各国が協力して効率的に宇宙開発を進めていこうという機運が高まり、1975年には米ソの共同プロジェクトである「アポロ・ソユーズ計画」として実現することにもなります。

さらには、2011年、アメリカ、ロシア、ヨーロッパ、カナダ、日本など十数カ国が参加した人類史上最大の宇宙施設である国際宇宙ステーション(ISS)の完成をついに迎えることになります。

★1970年2月、日本初の人工衛星「おおすみ」が打ち上げに成功し、日本は世界で4番目の国となる

日本で最初に人工衛星が打ち上げられたのは、1970年2月のことであり、宇宙空間観測所のある大隅半島にちなんで「おおすみ」と名付けられました。

こうして日本は、ソ連、アメリカ、フランスに次いで世界で4番目の人工衛星打ち上げ国となりました。

日本が他国と決定的に違ったのは、他国は弾道ミサイル開発の副産物として人工衛星の打ち上げ技術を習得したのに対して、日本は、糸川英夫を中心とした大学の研究機関が技術の向上を目的に行ったものであり、非軍事目的であり、このスタイルはその後も貫かれてきています。

★アメリカ初の宇宙ステーション「スカイラブ1号」は1973年4月に始動

世界初の宇宙ステーションは、ソ連が1971年4月に打ち上げた「サリュート1号」でしたが、これにドッキングした「ソユーズ11号」が帰還中の事故のより3名に宇宙飛行士が亡くなったため、その後の有人飛行は中止となってしまったようです。

その2年後の1973年5月、アメリカ初の宇宙ステーション「スカイラブ1号」が打ち上げられています。

ただ、太陽活動が活発になって機体にかかる空気抵抗が増したことなどにより、「スカイラブ」は1979年7月に地球に落下し、NASAの予算削減などもあって継続できなくなったようです。

★アメリカの「マリナー10号」が、1973年に金星経由で世界初の水星探査に成功

月探査だけではなく、太陽系の惑星探査も時期を同じくして米ソを中心に始まっています。

NASAは、無人探査機を用いた「マリナー計画」を立てて、火星、金星、水星の探査を行いました。

1973年に打ち上げられた「マリナー10号」は、まず金星に接近して大気を撮影した後、金星でスイングバイして飛行軌道を変えて水星へと向かいました。

こうして「マリナー10号」は、太陽に最も近い惑星である水星に初めて向かった探査機となりました。

★1975年、「アポロ・ソユーズテスト計画」で地球軌道上でのドッキングに成功し、米ソ初の共同プロジェクトが実現

1957年の「スプートニク・ショック」以来、熾烈な競争を続けてきた米ソの宇宙開発ですが、1975年に初の共同プロジェクトを成功させることになります。

アメリカの「アポロ宇宙船」とソ連の「ソユーズ宇宙船」を地球軌道上でドッキングさせる「アポロ・ソユーズテスト計画」が1975年7月に実現し、国際共同開発の先駆けとなりましたが、米ソの宇宙開発競争に終止符を打つことにもなりました。

この時に、米ソ両国が宇宙船をドッキングさせるために開発した技術は、その後の国際宇宙ステーション(ISS)建設などにも生かされることになります。

★1975年8月、アメリカの「バイキング1号」が火星着陸に初めて成功

月の次に到達したのは、地球から最も近い惑星である火星でした。

1975年8月20日に打ち上げられた「バイキング1号」は、11ヶ月の旅を経て、1976年7月20日、火星に無事着陸しました。

また、少し後に打ち上げられた「バイキング2号」も9月3日に無事火星に到着し、1号と2号の着陸機では、採取した土壌を元に3種類の生物探査実験がそれぞれ3回ずつ行われましたが、火星の土壌の中に微生物が存在する痕跡としての有機物は発見できなかったようです。

NASAはその後、約20年の空白期間を経て、1997年に「マーズ・パスファインダー」を火星に送り、ローバー(探査機)を使って調査を開始し、火星に水が存在したことをほぼ確実視しているようです。

★NASAが実施した「ボイジャー計画」は木星・土星・天王星・海王星を探査するかつてない壮大な計画

NASAが実施した「ボイジャー計画」は、木星・土星・天王星・海王星を探査するという、かつてない壮大な計画でした。

1977年に打ち上げられた「ボイジャー1号」は、木星と土星を探査し、大きな収穫を得ています。

1979年3月、「ボイジャー1号」が最接近の前日に撮影した写真に木星の環が写っており、また、驚くことに、木星の衛星「イオ」で活動中の活火山の様子も鮮明に記録されています。

「ボイジャー1号」は、土星の衛星「タイタン」でも多くの発見をしています。

★ヨーロッパでは1975年に欧州宇宙機構(ESA)が設立され「アリアンロケット」開発が始動

ヨーロッパにおいては、欧州各国が1975年に、より効率的な宇宙開発計画の実現を目指して欧州宇宙機構(ESA)を設立し、ロケット「アリアン」の開発を始めました。

1979年に「アリアン1ロケット」の打ち上げに成功してからは、「アリアン5ロケット」に至るまで、徐々に大型のロケットを開発しており、人工衛星の打ち上げに特化したロケットとして信頼を得て、世界の民間衛星打ち上げ実績の約半分を占めるまでに成長しています。

欧州宇宙機構(ESA)が2003年から2006年まで運用した、ヨーロッパ初の月探査衛星「スマート1」も「アリアン5ロケット」が打ち上げたものになります。

また、2004年には、欧州宇宙機構(ESA)の彗星探査機「ロゼッタ」を打ち上げています。

★1981年に「コロンビア1号」で初飛行に成功したスペースシャトルは世界初の再使用型

「アポロ計画」の成功以降、NASAの宇宙計画は、宇宙空間に大量の資材を運搬する再使用型のスペースシャトルと、このスペースシャトルによって建設される国際宇宙ステーション(ISS)へと切り替わりました。

スペースシャトルは1981年4月、「コロンビア号」の初飛行に成功し、それ以降、国際宇宙ステーション(ISS)の建設に関わる宇宙輸送システムを確立し、大きな成功を収めることになりますが、最大の特徴は、世界初の再使用型だったということになります。

スペースシャトルは1981年4月から2011年にかけて135回打ち上げられ、2011年7月の135回目の飛行をもって退役しましたが、そのうち2回は失敗しています。

★スペースシャトルでは1986年と2003年に失敗があり、2つの大きな惨事が起きている

スペースシャトルは135回目の飛行をもって2011年7月に退役しましたが、そのうち2回は失敗しており、大きな惨事をなりました。

第1回目の事故は、1986年1月28日のことで、スペースシャトル「チャレンジャー1号」が打ち上げ直後に爆発し、7名の乗組員が犠牲になりました。

第2回目の事故は、2003年2月1日のことで、スペースシャトル「コロンビア号」が地球に帰還する直前、大気圏突入時に空中分解し、7名の宇宙飛行士が犠牲になりました。

★「ボイジャー2号」は海王星に6つの環を発見し、木星探査機「ガリレオ」も多くの発見をもたらす

1977年に打ち上げられた「ボイジャー」1号と2号は、現在も宇宙の様子を毎日報告しながら運行中であり、1号は2012年6月、初めて太陽系の端に到達しましたが、これが地球から最も離れた場所へ行った人工物となりました。

「ボイジャー」1号と2号は、訪れた全ての惑星や衛星で、人類が予想もしなかった姿を伝えてくれました。

例えば、1989年8月に「ボイジャー2号」が海王星に接近通過した際、海王星に6つの環があることを発見しており、6個の衛星も発見されていますが、一度に6個の衛星が見つかったのは過去に例がないそうです。

また、NASAが1989年に打ち上げた木星探査機「ガリレオ」は、1995年に木星に到着し、衛星「エウロパ」の地下に水が存在する可能性など、いくつもの発見を人類にもたらしたようです。

★1990年4月、NASAが「ハッブル宇宙望遠鏡」を打ち上げ、宇宙の画像を地球に届ける

1990年4月、NASAは「ハッブル宇宙望遠鏡」を打ち上げましたが、これにより人類は、地上にある望遠鏡や天文台とは異なる新たな観測方法を手に入れることになります。

「ハッブル宇宙望遠鏡」は、地上約600キロの軌道を周回しながら宇宙を見る軌道天文台ですが、軌道上には障害物がなく、また、天候の影響を受けないため、高い精度の天体観測が可能になります。

そのため、これまでの観測では得られなかった、天文学史に残る貴重な天体写真を人類に送ってくれています。

ブラックホールやダークマター(暗黒物質)など、仮説とされていたものを観測結果から裏付けたりしたのも「ハッブル宇宙望遠鏡」の成果だと言われています。

また、NASAは「ハッブル宇宙望遠鏡」の後継機となる「ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡」を2018年以降に打ち上げる計画だとのことであり、赤外線を調査して、宇宙の初期の状態を観測することに一役買うことを期待されているようです。

★日本人初の宇宙飛行士は1990年に誕生し、2人目の毛利衛宇宙飛行士が日本人が宇宙で働く時代を切り拓いた

日本人として初めて宇宙に行ったのは、当時テレビ局の社員だった秋山豊寛宇宙飛行士であり、1990年12月2日、ソ連の「ソユーズ」に搭乗して翌日、宇宙ステーション「ミール」とドッキングして宇宙実験などを行い、9日間宇宙に滞在しました。

その次に宇宙に飛び出した日本人は毛利衛宇宙飛行士であり、彼は1985年にNASDA(現在のJAXA)が行った募集で選ばれ、訓練を重ねて宇宙飛行士となりました。

そして1992年9月12日から20日まで、スペースシャトル「エンデバー」にペイロードスペシャリスト(搭乗技術科学者)として搭乗しました。

彼のミッションは、NASAとNASDA(現在のJAXA)との共同宇宙実験プロジェクトでした。

その後、毛利氏は1998年、NASAのミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)の資格を取得しましたが、これは、NASAの宇宙飛行士として扱われる資格になります。

そして、2000年2月12日から23日にかけて、毛利宇宙飛行士は、今度はミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)として、再びスペースシャトル「エンデバー」に搭乗し、レーダーを使用して地球表面の詳しい立体地形を作成しました。

こうして毛利衛宇宙飛行士は、日本人が宇宙で働く時代を切り拓いてくれました。

★向井千秋宇宙飛行士が日本人初の女性宇宙飛行士として1994年にスペースシャトルに搭乗

1994年7月8日、スペースシャトル「コロンビア号」に向井千秋宇宙飛行士が実験担当のペイロードスペシャリストとして搭乗し、日本人初の女性宇宙飛行士が誕生しました。

1998年10月、向井千秋宇宙飛行士は2度目のペイロードスペシャリストとして、今度はスペースシャトル「ディスカバリー号」に搭乗し、日本の宇宙医学の知識・経験の蓄積に大きく貢献しました。

そして、その後、彼女は2012年8月現在、JAXA宇宙医学生物学研究センター長を務められていますが、これも女性初の快挙だとのことです。

★1998年11月、国際宇宙ステーション(ISS)建設のための構成部品の打ち上げが始まり、2011年7月に完成

1998年11月、国際宇宙ステーション(ISS)建設のための構成部品の打ち上げが始まり、40数回に分けて組み立てが進められました。

国際宇宙ステーション(ISS)は、アメリカ、ロシア、カナダ、日本など15カ国が協力して建設が進められましたが、元々はアメリカのレーガン大統領が1988年に呼びかけて始まったプロジェクトでした。

国際宇宙ステーション(ISS)は、高度400キロを周回しながら、地球や宇宙の観測、研究、実験を行う巨大な有人施設ですが、2011年7月についに完成しました。

そして、日本はそのうちの最大の実験棟「きぼう」の管理運営を担っています。

また、日本はH‐ⅡBロケットで補給機「こうのとり(HTV)」を打ち上げ、ISSまで食料や衣類などの補給物資を届けるミッションも担ってきており、国際宇宙ステーション(ISS)の存在は、日本の宇宙開発の発展にも大きく寄与しています。

 

21世紀・・・「はやぶさ」など無人探査機での開発と、「スペースコロニー」など数多くの人々が宇宙に飛び出す開発

21世紀に入り、人類はさらなる宇宙開発を進めています。

その一つが、日本の「はやぶさ」など無人探査機による宇宙開発であり、アメリカが1977年に打ち上げた「ボイジャー」は今でも飛び続けて太陽系の外に出ようとしています。

そして、もう一つ進められているのが、宇宙飛行士だけではなく、数多くの人々が宇宙に飛び出すという宇宙開発になります。

10万人が居住可能な「スペースコロニー」や、飛行場から往還できる「スペースプレーン」の計画などが、それを可能にしてくれるかも知れません。

★今後の宇宙開発には技術大国「日本」の貢献が期待されている

日本では、2003年に3組織が統合されて、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が発足し、宇宙開発を進めてきました。

2008年には宇宙基本法が制定され、翌2009年には第一次宇宙基本計画も策定され、新たな宇宙開発が始まっています。

日本は小さくて精密な機械を作れるという得意分野を生かして、人工衛星、探査機などの開発に尽力し、小惑星探査機「はやぶさ」や、アメリカ・イギリスと共同で造った太陽観測衛星「ひので」などを開発してきました。

さらには月周回衛星「かぐや」などの開発、打ち上げにも成功しましたが、この計画は「アポロ計画」以来最大規模の月探査だとして、世界中から注目され、詳細な月表面の調査データは世界的にも高く評価されています。

もう一つ、世界中から注目を集めているのが、ISSに物資を輸送する宇宙ステーション補給機「こうのとり(HTV)」です。

今後の宇宙開発では、技術大国「日本」が世界の注目を浴びており、日本のさらなる貢献が期待されているようです。

★中国を筆頭に、インドやヨーロッパなど新興国も宇宙開発を進めている

冷戦時代は、米ソの二大大国による独壇場となっていた宇宙開発ですが、1990年代以降は、宇宙開発を進める国が急増しており、その筆頭が中国になります。

1999年に無人宇宙船「神舟1号」を完成させ、打ち上げに成功していますが、さらに2003年10月には、「神舟5号」で初の有人宇宙飛行も成功させています。

また、宇宙ステーションの開発にも力を入れています。

中国だけではなく、インドやヨーロッパも計画を動かし始めています。

ヨーロッパの19カ国が加盟する欧州宇宙機関(ESA)では、NASAとの共同開発を積極的に進めるほか、2030年までに火星に人を送り込むことを目標にしたオーロラ計画など様々なミッションが進行しています。

さらにインドも2008年に無人探査機を月周回軌道に乗せることに成功しており、さらなる宇宙開発を進めています。

★オリオン宇宙船開発など、スペースシャトルを継ぐアメリカの新しい挑戦

2011年7月、135回の打ち上げを終えて、スペースシャトルは引退することになりました。

予想外の高コストや機体の安全性への不安が大きな理由だったと言われていますが、これでアメリカが宇宙開発から撤退した訳ではなく、既にいくつかの計画が動き出しているといいます。

その一つが、クルー・エクスプレイション・ビークル(CEB)と呼ばれるオリオン宇宙船開発だといいます。

また、国際宇宙ステーション(ISS)についても、予定を延長して、2020年まで運用する方針だとのことです。

★2003年5月、日本の探査機「はやぶさ」が小惑星「イトカワ」の物質サンプル採取に成功し、世界初の快挙となる

2003年5月9日に日本が打ち上げた探査機「はやぶさ」が、小惑星「イトカワ」から物質サンプルを採取して持ち帰る実験を成功させ、世界初の快挙となりました。

小惑星「イトカワ」は、日本のロケット開発の父・糸川英夫から名前をとった小惑星でした。

7年間に及ぶ「はやぶさ」の60億キロメートルもの旅は苦難の連続でしたが、奇跡的に無事全てのミッションを達成することができ、2010年6月13日に地球に戻りました。

そして、持ち帰ったカプセルからは、小惑星「イトカワ」由来の微粒子が発見されることになりました。

★10万人が永住可能な「スペースコロニー」を月の軌道上に建設する計画

宇宙空間に人工の居住区を作ろうという「スペースコロニー」という計画があり、1970年代にアメリカのプリンストン大学のオニール教授によって具体的な構想が発表されました。

宇宙ステーションと「スペースコロニー」との大きな違いの一つは、その規模・大きさであり、「スペースコロニー」は10万人ほどが永住できるような規模を持ちます。

「スペースコロニー」をどこに作るかを考える上で、重力が安定する場所が良いようですが、月の軌道上には2箇所、「ラグランジュポイント」と呼ばれる重力が安定する場所があるのでそこであれば、月から建設資材を運び、宇宙ステーションを作るのと同じような方法で「スペースコロニー」を建設できると考えられているようです。

★目前に迫った商業宇宙飛行では、複数の計画があり、費用は数千万円から

民間主導で開発・製造した宇宙船を使い、宇宙旅行を販売する計画が既に始まっており、費用は数千万円ほどになるようです。

最も具体的に進んでいたのは、ヴァージングループの民間宇宙旅行会社「ヴァージン・ギャラクティック」の計画でしたが、試験飛行に失敗するなど、計画は予定通りには進んでいないようです。

この宇宙旅行の費用は20万ドルとのことですので、数千万円で一般人が宇宙旅行できる時代が近づいていることは確かのようです。

★くり返し利用できる宇宙船「スペースプレーン」の開発は難航中でまだまだ先

今現在、宇宙へ行けるのは、特殊な訓練を積んだ宇宙飛行士だけに限られていますが、将来的には、一般の民間人が宇宙旅行を楽しめる時代が到来すると思われます。

そこで大きな課題となるのが、コストダウンですが、コストダウンのカギになると期待されているのが、「スペースプレーン」だといいます。

「スペースプレーン」の最大の特徴は、使い捨てでなく、何度も利用できるという部分であり、大型の打ち上げ設備も必要ないので、ジェット旅客機のように、滑走路から離着陸できるようです。

ただ、技術的な課題となるのが、高度や速度によって3種類のエンジンを使うので、この3段階方式を併せ持つエンジンの開発が難しいのだといいます。

日本でもJAXAやその前身機関が80年代から研究に取り組んでいるようですが、具体的な開発予定はまだ見えておらず、エンジンや高温に耐える構造材料の開発などに時間がかかり、30年後が目処のようです。

 

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